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■ 【木原まつり関連】木原家年表2021. 6.28

(大田区史【年表】の木原家に関する事項の抜き書き)

木原一族の家系図(大田区史の範囲)
袋田鈴木家
  
  1553.2.3  木原氏の祖 鈴木因幡守吉勝が没する
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  1569元禄12 鈴木七郎兵衛吉次が浜松城普請仮奉行となる
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  1570元禄13 鈴木吉次が浜松城完工以後御普請方惣奉行となる
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  1574.3.17 鈴木平兵衛吉頼が没する
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  1575.2.18 鈴木七郎兵衛吉次が受領名を許され、鈴木姓を木原姓に改める
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  1590天正18 馬込村の旧梶原領のうち、253石が木原因幡守吉次に与えられる
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  1592.2.24 木原七郎兵衛吉次が遠州木原村と引き替えに新井宿村を与えられ計440石を知行する 
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  1610.12.11 木原七郎兵衛吉次没(曹洞宗青松寺(港区)に葬る71)
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  1612.3.17 木原兵三郎重義が没する
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  1625〜元和年間 木原木工弁義久が日光東照宮社造営の棟梁を務める。余材を賜り山王熊野神社(新井宿)の社殿を建立したと伝
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  1625.11.11 木原木工充義久に新墾の地を450石余お賜る旨朱印が下付される。
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  1648.3.11 曹洞宗万福寺の木原家合葬墓の碑銘に、木原兵衛三郎重次の室(?)没とある
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  1654.9.12 江戸城紅葉山の東照宮上棟の功で木工頭木原木工充義久に将軍から賜物
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  1656.11.20 曹洞宗万福寺の木原家合葬墓碑文により木原木工充義久没
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  1657.5.9  木原重弘が父の遺跡を継いで大工頭を務める。
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  1663.2.5  木原兵三郎重弘が徳川家光13回忌の将軍日光社参に勤仕を命ぜられる。
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  1663.2.15 曹洞宗万福寺の墓地に木原吉次以来4代の合葬墓碑を木原義永が造立する
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  1664.11.20 新井宿薬師堂の境内の荒蘭崎桃雲寺碑を木原内匠義水が建立する
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  1674.9.19 新井宿村名主・惣百姓らが19箇条の訴状を認め年貢の減免を願いでる
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  1675.11.23 新井宿村の百姓らが前年に続き年貢減免を哀訴する
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  1677.1.2  新井宿村の重立百姓の六人衆が幕府に年貢減免の越訴のため江戸馬喰町武蔵屋に投宿中に事前に露見し木原氏の手の物に捕らえられる(義民六人衆)
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  1677.1.11 越訴が事前に露見した新井宿六人衆は木原氏の麹町の屋敷で斬首、百姓惣代市兵衛が死骸を引き取り日連宗善慶寺に葬る
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  1678.8.26 木原兵三郎重弘が京都禁裏造営の効で幕府より物を賜る
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  1679.4.19 善慶寺に新井宿義民六人衆の墓碑が、一族の間宮八郎によって建立される
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  1681.8.5 大工頭木原内匠重弘が、将軍徳川家綱の室、高厳院霊牌所の遷座上棟の功で銀30枚を賜る
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  1681.12.2  木原重弘が紅葉山徳川家綱廟上棟の功により銀を賜る
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  1682.11.26 木原重弘の子精白が、将軍綱吉に初目見する
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  天和年間 木原兵三郎重弘が徳川家光の三三回忌の御用掛を命ぜられる
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  1683.6月 木原兵三郎重弘が江戸城御化粧の間建造御用を務める
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  1690.7.25 木原兵三郎重弘が桐の間御番を命ぜられる。
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  1691.8.5 木原兵三郎重弘が御小納戸役になる
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  1691.8.10 木原七郎兵衛清白が桐の間御番になる。
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  1691.12.20 御次番になる
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  1692.1.10 木原兵三郎重弘、廩枚を加増される
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  1692.11.3 木原兵三郎重弘が布衣を許される
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  1695.2.7 木原七郎兵衛清白が桐の間御番に復職する
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  1697.7.26 幕府は原額500石以上の蔵米取の幕臣にたいして、蔵米を采地と引き換え、あわせて江戸周辺の私領村々に検知を行い一部を上知する。これに伴い木原兵三郎重弘は相模国高座・鎌倉二郡のうちで300石を拝領し、都合1050石余りを知行する。下丸子村は幕領となる
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  1697.10.3 木原頼母弘正が御近習番となり廩米200俵を賜る
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  1698.8.21 木原頼母弘正が御小納戸役となる
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  1698.12.25 蔵米100俵を加えられる
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  1700.5月  木原頼母弘正が故あって川越の柳沢吉保の許に逼塞(ひっそく)を命ぜられる。
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  1702.7.29 木原弘正が川越から帰ることを許され、父重弘の許で謹慎、食録は公収される
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  1702.12.3 木原七郎兵衛清白が布衣を許される
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  1703.3.16 木原重弘が幕命により日光山に赴き、社宮諸堂の普請を調べる
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  1707.10.9 木原七郎兵衛清白が御小納戸役となる。
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  1709.2.21 木原七郎兵衛清白が将軍徳川綱吉の死にあたり、役務を許され寄合に列する
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  1709.11.12 木原七郎兵衛清白が、東叡山の徳川綱吉の廟所造立の功により因幡守に叙任される
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  1709.12.26 木原因幡守清白が相模国鎌倉郡で300石を加増される
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  1713.5.15 木原因幡守清白が三河国吉田橋普請奉行の功により時服二領黄金3枚を賜る
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  1714.6.26 木原兵三郎重弘が養老料300俵を賜る、因幡守が1350石の家督を相続する
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  1724.5.27 木原兵三郎重弘が没する(85)
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  1730.1.30 木原因幡守清白が没する(70)
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  1730.4.2  木原頼母弘正が家督を継ぎ小普請となる
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  1737.6.11 木原頼母弘正が没する(55)
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  1737.9.13 木原七郎兵衛逵白(きはく)が家督を継ぎうち300石を弟長太郎親白に分与する
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  1759.7.4 木原七郎兵衛逵白が書院番になる
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  1774.11.2 木原七郎兵衛逵白が書院番を辞す
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  1787.1.11 木原兵三郎白郷が御使番に任ぜられる
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  1787.3.11 木原兵三郎白郷が布衣を許される
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  1795.10.11 木原七郎兵衛逵白が没する(76)
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  1810.4.23 木原兵三郎白郷が病気のため致仕を許される
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  1813.7.11 木原兵三郎白郷が病死、養子の養拙白敏が家督を継ぎ小普請へ入る
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  1814.2.8 木原白敏が書院番となる
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  1823.1.11 木原白敏が御使番となる
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  1828.2.21 木原白敏の嫡子白圭が将軍徳川家斉の孫家祥(家定)のお宮参りの節の小人騎馬を命ぜられる
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  1829.7.2 木原白敏が駿府目付を命ぜられる
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  1841.8.20 木原白敏が隠居、七郎三郎白圭が家督を継ぎ小普請に入る
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  1848.12.9 木原七郎三郎白圭が病没、嫡子、兵三郎白照が家督相続する
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  1850.9.26 木原養拙白敏が没する
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  1852.6.28 木原兵三郎白照の知行所のうち相模国鎌倉郡大船村が上知を命ぜられ、井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼の預り所となる
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  1852.9.21 木原兵三郎白照が知行地大船村の郷村引き渡しをする
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  1852.11.23 木原兵三郎白照が大船村の代地として常陸国河内郡内の鍋子埜原新田および宮渕のうちをあたえられる
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  1858.5.29 木原兵三郎白照が御番入りし、小姓組酒井対馬守組となる。
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  1869(明治2年) 新井宿村は延宝年間の領主木原氏の検地で村高936石とされ過重に苦しんできたが、この年にいたりようやく一村限りの地改めが行われ、村高703石2斗5升8合に改められる。
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  1895.8月(明治28年) 新井宿村桃雲寺が廃寺となり馬込村曹洞宗万福寺の併合されて墓地も合葬される