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■ 加納久宜

加納 久宜(かのう ひさよし、嘉永元年3月19日(1848年4月22日) - 大正8年(1919年)2月26日)は、幕末の上総国一宮藩主、明治・大正時代の政治家である。子爵。鹿児島県知事、千葉県一宮町長、貴族院議員。十五銀行取締役。日本体育会会長、日本体育会体操学校(現日本体育大学)校長。全国農事会幹事長、帝国農会初代会長。産業組合中央会副会長。日本競馬会創設に尽力、「日本農政の父」と仰がれる。第92代内閣総理大臣・麻生太郎の曾祖父にあたる。
鹿児島県知事を退任すると、東京都入新井村に居住した。ここでは、学務委員として地域の教育振興にも努め、明治35年(1902年)7月、英国の協同組合を見本に、大森山王の自邸を事務所にして、妻と2人で手作りで帳簿を揃えて、都内最古の入新井信用組合(現:城南信用金庫入新井支店)を設立し、荒廃していた地域を模範村にかえていき、村民から慕われる。 同時期の明治35年(1902年)、鹿児島県での実績から全国農事会幹事長に就任し、農業生産の拡大に尽力する。その後、帝国農会初代会長に就任するなど、全国の農政にも深く関与する。一方で、入新井信用組合の運営者として全国に信用組合の模範を示し、全国農事会の幹事長の立場でも産業組合運動の普及宣伝にも情熱を注ぎ、全国を遊説し、その普及活動に努める。 明治38年(1905年)には、産業組合運動の振興のため、入新井信用組合と全国農事会の主催により、全国産業組合役員協議会(後の全国産業組合大会)を開催し、自ら座長を務める。同年、大日本産業組合中央会副会頭に就任する(会頭は平田東助)。こうした活動で「産業組合の育ての親」と称される。
明治39年(1906年)、安田伊左衛門などとともに東京競馬会の発足に尽力する。日本人による初の馬券付き競馬を、東京大森の池上競馬場にて開催する。明治43年(1910年)には、東京競馬会・日本競馬会・京浜競馬倶楽部・東京ジョッケー倶楽部を統合して東京競馬倶楽部が設立され、初代会長に就任する。
明治27年(1894年)1月20日、鹿児島県知事に就任[1]。同年、内村鑑三、新渡戸稲造と東京英語学校で同学で、札幌農学校に学んだ岩崎行親を知事顧問として招聘し、不偏不党の方針を掲げ農業、水産、土木、教育の諸事業に積極的に取り組んだ。農会の設置と系統化を通じた農業の近代化と生産力の向上に努め、米の生産量を75%増収し、みかんやお茶などの特産品を奨励した。鹿児鉄道の新設、鹿児島港の近代化、道路などインフラ整備にも尽力し、おおきな成果を挙げる。教育の面でも、全国に先駆け、小学校の授業料を無料化し、遅れていた就学率を男女とも全国のトップレベルに引き上げた他、中学校の増設、高等学校(現鹿児島大学)の創設などに努めた。知事の肩書きにとらわれず、私財を投じ自ら先頭に立つ姿勢、気さくな性格とあいまって、県民から親のように慕われた。西南戦争により無気力化していた鹿児島県を近代化に導き、その基礎を築いた知事として、高い評価を受ける。明治33年(1900年)9月8日に知事を休職[2]。明治36年(1903年)9月7日、休職満期となり退官した[3]。
(ウッキペディアより)