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■ 六郷水門と羽田煉瓦堤防

六郷水門は、六郷用水の排水用水門として作られた。六郷用水は、玉川の狛江市和泉から六郷水門までの約30qにわたって流れていた。
昭和5年1月から昭和6年3月にかけて作られた。六郷用水は別名”次太夫堀”と言う。小泉次太夫吉次が慶長2年(1597)から15年かけて開削された農業用水である。田畑をうるおしながら流域の雑排水を多摩川に排水するとともに、肥料や雑貨類の船運にも利用されていた。
昭和に入ると六郷地区の人口が増え排水も増加する。雨天時による用水路への水の増水が多摩川に排水することが出来なくなり水門設置が必要となった。
六郷水門の工事は、昭和5年(1030)1月から3月にかけて行われた。これは「多摩川改修工事」(大正7年[1918]〜昭和8年[1933])の一環として建築された。
設計はドイツ人神智学者シュナイダーと言われるが、確かでは無い。当時の内務省玉川改修事務所長であった金森誠之(かなもりしげゆき)が考案した”金森式鉄筋煉瓦”が始めて使用された。
高度成長期には、この水門から自然排水だけでは対応しきれなくなり、ポンプでの強制排水されるようになった。
下水道の整備も進み、六郷水門はその機能を保ちつつほとんど使用されることがなくなった。(管理の大田区がいつでも使用できるように整備点検されている)羽田の煉瓦堤防もこの時に作られている。