情報メモ
 【歴史】川路利良(よしとし)
薩摩藩士川路利愛の嫡男として、鹿児島郡比志島村(鹿児島市皆与町)で生まれる。
元治元年(1864)7月の金門の変で戦功を挙げ、西郷隆盛や大久保利通らの評価を得た。慶応4年(1868)の戊辰戦争では、薩摩藩軍大隊長として彰義隊の鎮圧にあたった。
新政府の樹立後、明治4年(1871)に東京府大属、翌5年には邏卒総長に就任。同年8月に司法省警保寮が設置されると、警保助兼大警視となった。西郷の推薦で、ヨーロッパの警察制度調査のために渡欧し、帰国後は司法と行政の分離を主張。フランスを参考に警察制度の改革を建議し、警察行政の近代化に尽力した。川路が「日本警察の父」と言われる所以である。
明治7年1月に警視庁が創設されると、初代大警視に就任。西郷の下野にあっても、川路は警察に献身することを表明した。明治10年1月に警視庁が廃止され、内務省直轄の東京警視本署へと改編されるが、2月の西南戦争では、陸軍少将・征討別働第三旅団司令官として警視隊を率い、西郷軍と戦っている。
明治12年に海外警察制度と監獄制度の視察のため再び渡欧したが、渡航中に病となり吐血。渡航先のパリで治療を受けるも病状は改善せず、帰国後さらに病状は悪化し、10月13日に大警視邸(台東区下谷)で死去した。

 【歴史】島津斉彬
薩摩藩第十代藩主島津斉興の嫡男として、薩摩上屋敷で(港区芝)生まれる。お由羅騒動とよばれる御家騒動を経て、嘉永4年(1851)2月、第十一代薩摩藩主となる。
世子時代から老中阿部正弘をはじめとして、水戸藩主徳川斉昭、尾張藩主徳川慶勝、福井藩主松平慶永(春嶽)、土佐藩主山内豊信(容堂)、宇和島藩主伊達宗城らと親交があった。また、「蘭癖」と呼ばれるほどの西洋好きであり、藩主就任後は、集成館事業に代表されるような西洋文物の導入による富国強兵政策を推進した。我が国最初の様式軍艦昇平丸などの造船事業、大反射炉、溶鉱炉などの造兵事業に力を入れ、領内の砲台築造、西洋砲術の練習、様式軍隊調練、水軍の創設を実施した。
一方で、養女篤姫を第十三代将軍徳川家定の正室として送り込み、幕府に対する発信力を強めた。将軍後継者問題では一橋慶喜擁立を企む一派に与したが、擁立は失敗に終わり、南紀派の井伊直弼が大老になると、安政の大獄が始まった。
斉彬は、講義のために3000人の藩兵を率いての上京を計画するが、安政5年(1858)7月8日、鹿児島城下で練兵を指揮している最中に発症、16日に急死した。原因はコレラとする説が有力だが、赤痢・腸チフスなど別の病気、あるいは暗殺といわれている。

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